赤坂城(下赤坂城)
別名・下赤坂城。
後醍醐天皇のもとに馳せ参じた楠木正成によって築城されました。
1万騎の鎌倉兵をわずか500騎で迎え撃ち鎌倉方を散々悩ませましたが、にわか作りの城では長くはもたず正成は金剛山へと撤退します。
翌年、正成は赤坂城を奪還しますが、再び落城し金剛山へ撤退。しかしながら、上赤坂城、千早城で徹底抗戦し、幕府軍を予想以上に苦しめたため倒幕の機運が高まったと言われています。
千早赤坂中学校の裏が写真の碑がある公園になっており、そこからは日本の棚田百選に選ばれている棚田を見ることも出来ます。
大阪城(大坂城)
戦国期を通して重要視されていた城です。
石山本願寺滅亡後、羽柴(豊臣)秀吉によりその跡地に大坂城(現在は大阪城)が建てられました。
戦国最後の大合戦・大坂の陣が行われたのもこの城。
猛々しい戦国武将達の華々しい最後を思うと、何か感じるものがあって、庭園で何時間もいろいろと考えてしまいました。

日本100名城 54
吉祥寺
赤穂義士のお墓があることで有名なところです。
切腹を免かれた寺坂吉右衛門が46士の遺髪、遺爪、鎖かたびら等に銀10両を添えて義士の冥福を祈る碑を建ててくれるようこの寺院に依頼したものだそうです。
訪れた日は門が閉まっていて入ることができませんでした。
残念、残念。
楠木城(上赤坂城)
別名・上赤坂城。
下赤坂城が落城した後、急遽築いたこの城が本城となり楠木正成は幕府軍に徹底抗戦していきます。結局はこの上赤坂城も落ち、千早城へと撤退して抗戦を続けていくことになりました。
登城口から碑のある山頂までは20分くらいの距離で、途中には謂われのある地名も残っています。
なかでも「糞谷(くそんど)」という地名はかの有名な奇策が行われた土地です!
ぐつぐつと煮立たせた糞尿を敵に振りかけたというあれです!
真田丸
大坂冬の陣で難攻不落の砦として徳川軍を悩ませたご存じ・真田丸です。
秀吉が心血を注いで築いた大坂城は非常に堅固な名城でしたが、南に弱点がありました。
それを見抜いた幸村が築いたのが真田丸だと言われています。
冬の陣での講和によって破却されてしまいました。
現在、近くに真田山公園という公園がありますが、明星学園あたりに真田丸はあったと言われていて、その北にある三光神社に抜け穴と言われる穴と真田幸村の像が建っています。
千早城
上赤坂城を本城とした楠木正成が詰の城として築いたのがこの千早城です。
下赤坂城、上赤坂城と落とされた楠木軍が籠もり、圧倒的多数の幕府軍を数々の奇計で苦しめたのもこの城です。
建武の新政以後も楠木氏の居城でしたが、正成の孫である正勝の時に北朝方の畠山基国により落城し、その幕を下ろしました。
現在は金剛山登山道の脇道に千早神社として残っています。

日本100名城 55
道明寺の戦い古戦場
大坂夏の陣の最前線地域です。
この辺りであの有名な後藤又兵衛が討死しました。
決戦当日、後藤又兵衛は真田幸村、毛利勝永と合流するはずでしたが濃霧のため両将と離れて一部隊だけ突出してしまいます(両将と意見があわず突出したとの説も)。
当然のように徳川軍に囲まれ、死に場所を求めるかのように華々しく散っていったそうです。
現在は公園(昔は遊園地)になっており、公園内には大坂の陣戦没者慰霊碑、吉田武右衛門之碑、また小林一茶句碑などもあります。
楠公誕生地
「なんこうたんじょうち」と読みます。
ゲリラ戦を得意とした楠木正成が誕生した場所と言われています。
文禄年間に豊臣秀吉の命を受けた増田長盛が土壇を築いたと言われていて、現在は郷土資料館となっています。
近くには産湯の井戸もありました。
安居天満宮(眞田幸村戦死地)
大坂の陣最大の英雄で、徳川軍に「真田日本一兵(さなだひのもといちのつわもの)」とまで言わせた真田幸村は、疲労困憊のところを松平家臣・西尾仁左衛門にここで発見され首を与えたそうです。
西尾は論功行賞で手柄を得ようとしましたが、家康に一喝され特に報償も得られなかったらしいので、いかに家康が幸村をかっていたかがわかります(おまえなんかが幸村を討ち取れるかという意味)。
この「幸村」というのは大坂の陣での変名で、本来は「信繁」といいます。
大坂の陣における真田の赤備えと六文銭は特に有名で、家康の本陣に三度突入。あと一歩のところまで家康を追いつめました。