| 熱田神宮 三種の神器の一つ「草薙神剣」が奉斎されたのが起源になります。 素戔嗚尊(すさのおのみこと)が八岐大蛇(やまたのおろち)の体から取り出した雨叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)を天照大神に献じ、それを日本武尊(やまとたけるのみこと)が伊勢神宮で受け取って東夷征討を成し遂げました。 その際、草を薙ぎはらって難を逃れ、豪族を平らげたことから草薙神剣と呼ばれるようになります。 でも、私としては信長が桶狭間の戦い出陣の際、戦勝祈願をしたということの方が興味深いですね。 桶狭間の戦いで大勝した信長はお礼に塀を献上。 境内に信長塀として残されています。 |
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| 荒子観音 前田利家の前田家ゆかりの荒子観音です。 本堂は前田利家が寄贈したそうで、ちょっと前の某国営ドラマの影響もあり参拝者が結構いました。 このあたりは前田利家関連の建造物が多いため役所によって犬千代ルートという散策コースが設定されていて、道のいたるところに犬千代ルートという道しるべが埋まっています。 |
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| 荒子城 荒子観音から約200mところにある荒子城趾です。 前田利家の父・前田利昌が築城。城と言うよりは砦程度の規模だったそうです。 ここにも某国営放送の影響で、2003年に説明版が立てられています。 前田利家はこの荒子城か前田城のどちらかで生まれたようで、まつとはこの荒子城で結婚しました。 |
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| 安昌寺 雲山和尚のお寺で、長久手合戦の折りには敵味方の区別無く戦死者を弔ったと言われています。 色金山歴史公園のすぐ南にあり、池田勝入親子と森長可の位牌がまつられています。 |
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| 今崎城 来迎寺の境内に写真の碑と説明板がありますが、説明板にもこの城に関する文献は見あたらないと書かれています。 来迎寺町の地名に、古城や足軽などがのこっているそうで、今崎城は古刹来迎寺の守護であったと考えられています。 来迎寺の一里塚がある場所の北側です。 |
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| 犬山城 日本で唯一個人所有の城でありましたが平成16年4月に財団法人所有となりました。 国宝でもあります。 さすがに保存されている城だけあって、階段が急で上るのに一苦労です。 木曽川を臨む場所にあり、木曽川と犬山城の遠景は絶景です。 日本100名城 43 |
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| 稲生原古戦場(庚申塚) 織田家の家臣である柴田勝家や林通勝・光春兄弟らは当時大うつけと言われていた信長を見切り、信長の弟で頭脳明晰な信行を擁立しようと謀反を企てます。 この地にて決戦を挑むのですが、結局は信長方に敗れ、信長の織田家統一に拍車をかけてしまう結果に。 名塚砦の南100mくらいの所に、この戦いの戦死者を弔うための庚申塚がたてられており説明板と碑があります。 |
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| 岩崎城 織田信秀が築城。 その後、松平(徳川)に奪われ丹羽氏清が入城します。 長久手の戦いの際、岡崎への中入りを企てる秀吉方が岩崎城下を通過しようとしました。 やり過ごすこともできたのですが、岩崎城を守っていた丹羽氏重はこのまま通しては恥と思い、攻撃をしかけ城兵300名以上とともに戦死したと言われます。 池田恒興らはここで時間を浪費したために家康方に追いつかれ大敗を喫してしまうのです。 現在写真の模擬天守や歴史記念館などもありますが、土塁が残っているのでそちらも見応えありますよ。 |
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| 岩塚城 尾張守護・斯波氏の一族吉田治郎左衛門重氏が築城し、その子である守氏が居城していました。 斯波氏が滅ぼされるとそのまま織田氏に仕えましたが、守氏の子である元氏は織田氏の大河内城攻めに参加して戦死してしまいます。 現在は扁雲寺になっていて、門前に写真の碑が建っています。 地下鉄東山線の岩塚駅から西に1.5kmくらいのところですかね。 |
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| 上野城 織田信秀に仕え、槍の名手だった下方左近貞清が築城しました。 地下鉄砂田橋駅から南に1kmくらいのところにある永弘院に写真の碑がありますが、その南にある上野小学校も城域だったようです。 |
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| 鯏浦城 この辺りを治めていた服部党(一向門徒)を攻めるために織田信長が築城し、弟の信興を置きました。 信興は小木江城で一向門徒に攻められ戦死してしまいますが、これを契機に信長は一向門徒を徹底的にたたくことになります。 現在は薬師寺の境内に碑があり、横には樹齢600年と言われる大楠があります! |
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| 牛田城 刈谷城主である水野忠政の命を受けて牛田政興が築城しました。 猿渡川は水野氏にとって生命線であり、今川・松平に備える意味もあったようです。 現在は住宅地の中に写真の碑と説明板が建っています。 |
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| 大秋城 今川氏豊に仕えた大秋十郎左衛門が居城したと言われます。 現在は大秋八幡社となっており、地下鉄本陣駅のすぐ近くです。 |
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| 大草城 福岡氏によって築城されましたが、有名な城主は鬼武蔵こと森長可です。 長久手の戦いの際、城主の森長可が戦死したため廃城になりました。 色金山歴史公園の北東方面にあり、土塁などがよく残っています。 |
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| 大高城 桶狭間の戦いの時に今川義元の命によりこの城に入ったのが松平元康(徳川家康)です。 元康はこの城から織田方の丸根砦を攻め陥落させています。 現在は公園となっています。 |
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| 大野城 小牧長久手の戦いで状況が膠着している中、秀吉は蟹江城を調略で味方に引き込みこの大野城を攻め立てます。 しかし、城主である山口重正が奮戦するうち家康が蟹江城を抑えたので大野城は落城することなく持ち堪えました。 現在は三日月形の池の隣に写真の碑と説明板があります。 |
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| 大脇城 梶川五左衛門秀盛により築城されたと言われ、秀盛は織田信長、信雄に仕えた後、朝鮮出兵で池田輝政に従い、戦死したそうです。 発掘調査が行われたそうですが、城域の多くが豊明インター付近のため遺構はよくわかりませんね。 |
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| 岡崎城 幼少の頃の人質生活を乗り越えて後に幕府を開いた徳川家康が生まれた城です。 田楽狭間(桶狭間)で今川義元が討たれたのを契機に独立した家康が戻ってきたのもこの城です。 公園内には「三河武士のやかた家康館」があり、三河武士について詳しく紹介されています。 日本100名城 45 |
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| 緒川古城 1475年水野貞守が築城して以来5代100年にわたり水野氏が居城しましたが、1575年織田信長の命により、水野信元が殺害され廃城となりました。 現在は東浦町役場の東にある古城公園に土塁が櫓台と思われる遺構があり、遊具がある公園内には徳川家康の母・於大の方出生地の碑があります。 |
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| 緒川城 東浦町は徳川家康の母・於大の出生地であることを全面に押し立てていまして、於大の父は緒川城四代城主・水野忠政です。 東浦町役場の裏に写真の碑があり、さらにその裏の於大公園には緒川城主三代の墓があります。 さらに緒川城の総門は於大公園の西にある乾坤院に移築されています。 |
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| 桶狭間古戦場(豊明市) ここも戦国期で一、二を争う有名な事件が起こった場所です。 本来は田楽狭間と呼ぶのが正しいんですが、桶狭間っていうのが有名になりすぎているので、もう無理でしょうね。 公園内や近辺には今川義元のお墓や陣地跡、資料館などがあります。 |
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| 桶狭間古戦場 瀬名陣所 今川義元の家臣・瀬名伊予守氏俊が先発隊として着陣し、義元の昼食場所の設営を行った場所です。 桶狭間古戦場田楽坪と長福寺の真ん中当たりにあります。 |
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| 桶狭間古戦場 田楽坪 豊明市にも桶狭間古戦場が公園として整備されていますが、緑区にも桶狭間古戦場があります。 実際には、両方の場所あたりということで、どちらも間違いではないのでしょうね。 公園内には桶狭間の戦いにちなんだ史跡が残されています。 |
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| 小田井城 織田敏定が築城し尾張下四郡を領し、その後代々子孫が居城したが小牧長久手の戦いの際、秀吉に追い出され廃城となりました。 名鉄瀬戸線の下小田井駅近くの小田井城跡公園に写真の碑がありますが、駅を出たところにある地図を頼りに探すととんでもないことになるのでご注意を。 実際の位置と地図とではだいぶ異なります(私もさまよい歩きました…)。 |
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| 片原一色城 南朝方の橋本伊賀守が築城し、橋本氏は戦国期に信長・秀吉・加藤清正等の鉄砲頭として活躍しました。 城域は村上神明社のあたりですが、すぐ横の尾張サイクリングロード沿いに写真の碑が建っています。 |
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| 蟹江城 北条時任が築城。 小牧長久手の戦いの際、城主の佐久間正勝が砦を築くため前田与十郎に留守を任せました。 与十郎は滝川一益と通じていたので蟹江城は秀吉方になってしまうのですが、それを知った家康の猛攻を受けます。 結局与十郎は首をはねられ一益が降伏。 その際に蟹江城は破壊されました。 現在は蟹江歴史民族博物館の裏に写真の碑があり、すぐ横に井戸の跡が残っています。 |
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| 刈谷城 徳川家康の母である於大の父・水野忠政により築城されました。 忠政の後を継いだ信元が織田氏に通じたため、家康の父・松平広忠は於大を離別してしまいます。 刈谷に戻った於大は再婚するまでの間、刈谷城の東の椎の木屋敷で生活していました。 現在刈谷城は亀城公園となっていて、近くの郷土資料館に三の丸の碑、亀城小学校に大手門の碑が建っています。 |
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| 木下長嘯子邸 木下勝俊は北政所(おね)の甥にあたります。 秀吉の元で大名になりますが、関ヶ原の際去就に迷って所領を没収されてしまいます。 それによって京都で幽棲ということになり、結果、歌人として高い評価を受けました。 常泉寺のすぐ横に写真の碑があります。 |
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| 教圓寺 小牧長久手の戦いの際、家康が色金山から御旗山に陣を移す途中に戦勝祈願したと言われるお寺です。 首塚の南西100Mくらいのところにあり、幼稚園のお隣でした。 |
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| 清洲城 本来の天守は現在織田信長像がある近くの公園にありました。 関ヶ原合戦の折、東軍先鋒隊が岐阜城の織田秀信を攻めるために入ったのもこの城。秀信を攻撃しない福島正則達が家康の使者に叱責されたのもこの城です。 |
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| 沓掛城 桶狭間の戦いの際、今川義元が最後に泊まったのがこの沓掛城です。 桶狭間の戦いで今川軍が総崩れになった後も沓掛城主・近藤景春は最後まで抵抗しました。 桶狭間の戦いの際、今川軍が田楽狭間で休息をとっていることを信長に知らせた簗田出羽守政綱は戦後恩賞としてこの城の城主となったのです。 現在は史跡公園として整備されていて、空堀では蛍を飼育してるそうです。 |
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| 小出秀政邸 小出秀政の屋敷跡です。 秀政の妻は秀吉の母である大政所の妹にあたります。 その関係もあり、片桐且元とともに秀頼の守役を務めました。 中村公園内に写真の碑があります。 |
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| 古木江城(小木江城) 「こきえ」と読みます。 織田氏が一向門徒と戦っている時期に、信長の弟の信興が築城し守っていました。 信興は一向門徒の攻撃を受け自刃。しかしながら、信興の戦死を機に信長は一向門徒を徹底的にたたいています。 現在は木曽三川公園の東側で、立田道の駅のそばにある富岡神社に写真の碑があります。 |
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| 御器所西城 佐久間家勝が築城しました。 数代後に盛次が織田氏に仕え、盛政にような猛将も登場しています。 現在は尾張徳川藩祖・徳川義直と一四代藩主・徳川慶勝を祀る尾陽神社になっています。 |
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| 御所屋敷 豊臣秀吉の母・大政所の出身地がはっきりしていません。 いつのころからかこの御器所の地で生まれ、秀吉をここで産んだと言われるようになりましたが秀吉の出生地は他にも候補があり実際にはわかりません。 地下鉄の荒畑駅にすぐ近くに写真の碑と祠があります。 |
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| 小林城 尾張守護・斯波氏の一族である牧長義が築城し、その子・長清の代まで居城していました。 長清は信長の義弟(信長の妹・おとくの夫)にあたるため織田氏とも縁が深かったことになります。 長清の死後小林城は廃城になりますが、その跡には柳生兵庫介の屋敷が建ち、さらにその後、矢場地蔵で知られる現在の清浄寺が建立されたのです。 |
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小牧城(小牧山城) 戦国期、織田信長が稲葉山城(岐阜城)攻略のために小牧山城を作りました。ですので、稲葉山城攻略後は廃城。 その後小牧・長久手の戦いの時に一部改修されました。 現在の復興天守は地元の方が私財を投じて建設、市に寄贈されたものです。 |
| 椎の木屋敷 徳川家康の母・於大の方は刈谷城主・水野忠政の娘として生まれ、松平広忠に嫁ぎました。 忠政が亡くなると、於大の兄である信元が水野家を継ぎますが、信元は今川に見切りを付け織田に通じたため激怒した広忠に於大は離縁されてしまいます。 刈谷に戻ってきた於大は久松信俊と再婚するまでの間、刈谷城の東にあるこの椎の木屋敷で生活していました。 江戸時代には一般者の立ち入りが禁止されていたそうですが、現在は自由に出入りが出来ます。 |
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| 重原城 もともとは平安末期に成立した重原荘の荘園を支配する地頭の館として存在していた可能性が高く、防御機能を持った城郭として整備されたのは一六世紀前半だそうです。 刈谷城の水野氏により今川、松平に対する抑えとして重視されていましたが、今川氏によって落城させられました。 現在、上重原公民館の裏に写真の碑が建っています。 |
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| 十二城 板垣冠者兼信の築城と伝わりますが、詳細は不明です。 現在、唯称寺あたりが城跡ですが水堀と言われる跡と、門前に写真の碑があります。 |
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| 常照寺 池田親子と森長可のお墓があります。 しかし私は、境内までおじゃましたのですが見つけることができませんでした…。 あとで調べたところによると、ちょっと分かりにくいところにあるそうなので次回こそは! リニモの「はなみずき通り」駅のすぐ目の前にあります。 |
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| 勝幡城 織田信長の祖父である織田信定が築城し、信長の父である信秀がこの一帯の勢力を拡大しました。 信長出生地説があるなかで最も有力なのがこの勝幡城です(他は那古野城、古渡城)。 現在は日光川の東岸に碑が建っています。 |
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| 常泉寺 豊国神社がある中村公園の近くにあって太閤山とも呼ばれています。 境内には秀吉の産湯井戸の跡や、秀吉の像、秀吉お手植えと伝えられる柊が残っています。 |
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| 末森城 信長の父・織田信秀が築城しました。 信秀はこの城で病死し、三男の信行が城主になりましたが、兄・信長への謀反を察知され清洲城で謀殺されます。 その翌年に城は破却。 現在は城山八幡宮となっていますが、ほとんどが末森城の城趾で平城のつくりがかなりよく残っています。 |
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| 助光城 信長の家臣・福留左近将監の居城であるとされますが、詳細は不明です。 士之宮神明社の境内に写真の碑があります。 近鉄伏屋駅の近くにあり、ここから前田城跡である速念寺のあの特徴的な建物も見ることができます。 |
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| 善照寺砦 桶狭間にて今川義元を奇襲する直前に、織田信長が待機していたといわれる砦です。 本当は中島砦では?という説も出ています。 現在は公園です。 |
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| 戦人塚 桶狭間の戦いにおいて壊滅的な打撃を被った今川方の犠牲者が眠る地です。 住宅街の中にありました。 |
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| 田端城 越智信高が築城したと言われる。 林姓を名乗り、信高の子・弥助は城を拡張、さらに弥助の子である通勝は信長の家老まで務めました。 城は稲生原合戦の後廃城となり、その跡地に林泉寺が建ちました。 さらに林泉寺は北東50mくらいのところに移り、現在の金城小学校が建ったというわけです。 現在は校庭の東端に写真の碑と清正橋の石があります。 |
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| 長福寺 桶狭間の戦いの際、当寺の上人は今川義元が着陣すると率先して酒食を提供し労をねぎらったそうです。 境内には今川義元の茶坊主・林阿弥が首実検をさせられたといわれる大杉や、桶狭間の戦いにおける供養塔が建てられています。 |
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| 知立城 もともとは知立神社の神主だった永見氏の居館でした。 二九代貞英の時に桶狭間の戦いが起こり、落城。 その後、刈谷城主の水野忠重により御殿が建てられましたが、地震により倒壊してしまったそうです。 現在は児童公園になっています。 |
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| 豊国神社 豊臣秀吉を祭神とした神社で、中村公園という公園の中にあります。 公園の中には秀吉清正記念館、日吉丸の像など秀吉にちなんだ物がたくさん見られます。 |
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| 豊臣秀吉誕生地 豊臣秀吉が生まれたと言われる場所です。 中村公園の中に写真の碑がありますが、秀吉生誕の地は諸説あり、はっきりとはしません。 |
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| 中島砦 新しい説では桶狭間の戦いの時に織田信長はこの砦で、今川義元桶狭間で休憩中の報を受けたといわれています(従来の説では善照寺砦)。 砦跡の碑は個人のお宅の庭にあります。 |
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| 長久手古戦場 小牧長久手の戦いで最大の激戦地であった仏ヶ根に作られた記念公園です。 公園内には郷土資料室があり長久手の戦いについて詳しく紹介されています。 また、公園内には勝入塚、庄九郎塚もありますし、無料のレンタサイクルもありますので、ここに車を停めて自転車で古戦場巡りをするのもいいのではないでしょうか。 |
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| 長久手古戦場 色金山 小牧長久手の戦いの際、岡崎への中入りを企てる三好隊を追って家康は小牧を出発します。 翌朝この色金山に本陣を据え軍議をこらしたと言われています。 現在は色金山歴史公園として整備されていて、家康が腰掛けたと言われる写真の床机石が山頂にあります。 |
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| 長久手古戦場 木下勘解由塚 小牧長久手の戦いで三河進撃隊の大将は三好秀次(後の豊臣秀次)。 徳川家康の先遣隊に追撃を受けて潰走します。 秀次は馬を失い徒歩で逃げるうち可児才蔵に馬をよこすよう言いましたが、才蔵は「雨の日に自分の笠ををす馬鹿がどこにいる」といって去ってしまいます。 走って逃げまどう秀次に木下勘解由左衛門利定は自分の馬を与え、自分は徳川軍に切り込み討死しました。 ここはその木下勘解由を弔っている塚です。 |
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| 長久手古戦場 庄九郎塚 長久手の戦いの際岡崎への中入りを企て、家康軍に敗れて戦死した池田之助(庄九郎)の戦死地です。 之助は池田恒興の長子で当時は岐阜城主でした。 古戦場公園の敷地内に写真の塚があり、国指定史跡になっています。 |
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| 長久手古戦場 勝入塚 豊臣秀吉が敗北した合戦として有名な小牧長久手の戦い。 実際は大規模戦闘は行われず、この地域一帯での戦闘が唯一のものでした。 羽柴秀吉は、三好(羽柴・豊臣)秀次・池田恒興らの献策(留守中の徳川家康の本拠岡崎と衝く)をしぶしぶ認めましたが、家康に察知されここでの戦闘が起こります。 結果、羽柴軍は歴戦の勇士森長可(鬼武蔵)、池田恒興らを失い、敗北しています。 古戦場公園の中に写真の池田恒興の戦死地の碑があります。 恒興は勝入斎とも言われるので勝入塚と呼ばれています。 |
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| 長久手古戦場 首塚 安昌寺の雲山和尚が、長久手の戦いの際の戦死者の敵味方を問わず埋葬した際に築いた塚です。 長久手の戦いの際には野と言わず山と言わず、屍の山となったそうで、その惨状に心を痛めたそうです。 安昌寺のすぐ南にあります。 |
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| 長久手古戦場 血の池 以前この地には池があり、長久手の戦いの際に兵が水を飲んだり、また血に染まった槍や刀を洗ったと言われています。 合戦の日である4月9日頃になると池の水が血の色に染まることから血の池と呼ばれていますが、現在はもう存在していません。 写真は鎧掛けの松(3代目)と呼ばれるもので、兵が槍や刀を洗う際に鎧を掛けたということからそう呼ばれています。 現在は血の池公園と児童交通公園になっています。 児童公園と血の池公園がくっついているのってなんか…^^; |
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| 長久手古戦場 堀久太郎秀政本陣跡 秀吉方の堀秀政が陣を敷いた場所です 三好秀次の軍を破って追撃してきた、徳川方の榊原康政、大須賀康高の軍をここで迎え討ち食い止めます。 総合的には徳川勝利である小牧長久手の戦いでこの桧ヶ根(ひのきがね)の戦いが局地戦で唯一の秀吉側の勝利となりました。 現在は公園として整備され、長久手町立の図書館があります。 |
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| 長久手古戦場 御旗山 羽柴秀吉方の池田・森両隊の様子を伺いながら、色金山に進軍した徳川家康は、さらに本陣をこの御旗山を進め、頂上に金扇の馬標を立てました。 堀秀政本陣跡と血の池公園の真ん中くらいにあります。 |
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| 長久手古戦場 武蔵塚 森長可は美濃金山城主で、池田恒興の娘婿にあたります。 鬼武蔵の異名をもつ織田の猛将です。父は森可成。 伊井直政隊の鉄砲に 眉間を打ち抜かれこの地で戦死。 長男・可隆が戦死したため家督を継ぎました。森家は織田の戦いで戦死が多く、三男長定(蘭丸)、四男長隆(坊丸)、五男長氏(力丸)の三人は本能寺の変で戦死しています。 猛将・長可は、あの有名な蘭丸(乱丸)のお兄さんになるわけですね! 古戦場公園の300mほど西に写真の武蔵塚があります。 |
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| 長久手城 永享年間に築城されましたが、しばらくのち空城となり廃れてしまいます。 その後加藤太郎右衛門忠景が城主となり長久手村を領しました。 忠景は長久手の戦いの際、義弟である徳川方の丹羽氏重を助けるため岩崎城に入りましたが、秀吉方の池田勢によって城兵230名と共に戦死してしまいます。 長久手城は再び荒れ果てますが、後に忠景の子孫である尾張藩士が供養のため観音堂を建て現在にいたっています。 血の池公園のちょこっと西側です。 |
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| 名古屋城 名古屋のシンボル名古屋城です。 関ヶ原合戦後家康の命により各大名に普請がいいつけられたため、石垣のいたるところに各大名家の刻紋が見られます。 残念ながら天守は大戦で焼失してしまいましたが、敷地内にはたくさんの文化財等残っています。 名古屋のプロレスの中心地・愛知県体育館がそばにあるので、プロレス観戦の前によく行っています。 日本100名城 44 |
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| 那古野城 現在の名古屋城の二之丸あたりに碑があります。 織田信長の出生地には3説有り、ここ那古野城、古渡城、勝幡城ですが、この那古野城は信長の父である織田信秀が今川氏豊から奪って居城とし、5歳の信長を城主にしたとした説の方が信じやすいですよね。 |
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| 名塚砦 柴田勝家と林通勝・光春兄弟に謀反の疑いがあるということで、信長はこの地に砦を築かせ佐久間盛重に守らせました。 砦が完成した二日後に100mくらい南の稲生原にて信長方が勝利を収め、織田家の統一に拍車がかかることになります。 現在は白山神社となっており、境内に写真の説明板が建っています。 |
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| 鳴海城 桶狭間の戦いの時に、今川方の猛将岡部元信が守っていたといわれる城です。 ここら辺一帯に桶狭間の戦いに縁のある史跡がたくさんありますので、いろいろまわってみるのもいいと思いますよ。 私はレインボーホールでのプロレス観戦前に、電車の始発に乗って一日がかりでまわりました。 ちなみに、東海道五十三次の宿駅ですので本陣もすぐ近くにあります。 |
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| 西尾城 三河守護足利氏により西条城として築城され、吉良氏と名前を改めた一族に統治されていました。 今川に与する吉良氏を、徳川方の酒井氏が降し名前を西尾城と改めました。 現在は公園の中に丑寅櫓等が再建されています。 |
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| 荷之上城(服部家住宅) 織田氏との戦いの後、服部氏は旧領である荷之上城の跡に居を構えたと言われ、それがこの服部家住宅です。 建物も宅地も国の重要文化財に指定されていますが、見学には予約が必要です。 |
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| 丹羽長秀邸 信長の功臣・丹羽長秀の屋敷跡です。 秀吉が丹羽長秀と柴田勝家にあやかる(おべんちゃら?)ため二人から一字づつとって「羽柴」と称したのは有名な話ですよね。 信長の死後は秀吉に仕え、後に秀吉から羽柴姓を賜っています。 きっと複雑な気分だったでしょうね。 現在は児玉小学校の西に写真の碑が建っているだけです。 |
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| 蜂須賀小六正勝宅 蜂須賀城の西南すぐのところに写真の碑が建っています。 |
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| 蜂須賀城 豊臣秀吉の物語に必ず登場する蜂須賀小六正勝が生まれた蜂須賀城です。 一般に盗賊のお頭のような描き方をされていますが、実際にはれっきとしたこの地域の土豪です。もっとも、部下たちにはがらの悪いのが多かったようですが。 正勝が産まれたころは各織田氏が勢力争いをしているころで、戦いには傭兵のような参加の仕方をしていました。 斉藤氏が勢力を伸ばすとその傘下へ、ついで織田信長に仕えました。 秀吉との出会いもこの頃だったようです。 現在は菩提寺である蓮花寺に写真の碑があります。 |
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| 早尾東城 津島の豪族である大橋源三右衛門によって築城されたと考えられています。 本能寺の変後は織田信雄の配下である橋本大膳が入りますが、矢合城へ移ってしまい廃城となります。 現在は常徳寺の駐車場あたりに写真の碑が建っているだけで、遺構は見られませんでした。 |
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| 万松寺 織田信秀の菩提寺です。 ここでの信秀の葬儀の際、信長はひどい格好で現れて位牌に抹香を投げつけたのはあまりにも有名な話ですよね。 名古屋城築城の際に加藤清正が宿舎にしたのもこの万松寺です。 さらに後に徳川家康となる竹千代は人質時代に2年間この万松寺で過ごしています。 しかし、今の状況といったらもう…。何とも言えませんね…。 |
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| 半城土古城 この付近にはジトと呼ばれる場所があり、これは地頭のなまったものと考えられ、この辺りに地頭の館があったのではないかと考えられています。 勝宝寺の境内に写真の説明板があり、堀跡があると書かれていますがよくわかりませんでした。 |
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| 日比津城 南北朝時代に野尻氏が築城。 清洲と守山の通り道になっているため、織田氏も監視を絶やしませんでした。 中村公園から北へ1kmくらいのところに大円寺があり、写真の暮塔は城主である野尻氏のものと伝えられています。 |
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| 平手政秀邸 志賀公園に写真の碑があります。 平手政秀は織田信秀の重臣だったので信長の守役を任じられ、日々信長のうつけぶりに頭を悩ませていました。 あまりにも奇行がひどく、人心が離れていきそうになったため信長を戒めるために諫死してしまいます。 でも、何も死ななくてもいいのに…。 実際、政秀が諫死した後も信長の奇行は修まってないし、政秀の子どもも優遇されていません。 ですから、政秀の死の本当の意味はよくわからないですよね。 |
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| 廣井城 洲崎神社の入口に写真の看板があり、 「天文年中迄城主中村氏以後社家が廣井村を支配」 とたった2行でお城の歴史が書かれています。 すぐ横には尾張藩の御舟手役所があったようで、説明板が建っています。 |
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| 福島正則生誕地 秀吉子飼いの武将として有名な福島正則が生まれたと言われる地です。 幼名は市松。 正則は12歳の頃人を殺めています。その時預けられた家が福島姓だったために福島正則となりました。 その後の秀吉に仕えての活躍は有名ですが、私には徳川家康に手玉にとられてしまった感がぬぐえません。 現在正則の菩提寺である菊泉院の南150mくらいのところに写真の碑と説明板が建っています。 |
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| 古渡城 織田信秀が築城しました。 信長はこの城で元服したそうですし、ここで生まれたとする説もあります。 信秀が那古野城からここに移り、末森城に移る約15年間を過ごしました。 現在は真宗大谷派名古屋別院となっています。 |
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| 前田城 前田利家の生誕地とされているところです。 荒子城で誕生したという説もあるため、実際のところはわかりません。 小牧長久手の戦い以降、秀吉方に付いたため家康の攻撃を受けて落城。 その時の城主・前田譽十郎のお墓がいまでも境内に残っています。 お寺の本堂の形がおもしろいです! 利家の兜の形に似ているんです! |
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| 丸根砦 桶狭間の戦いの時に、大高城の松平元康(徳川家康)に攻められました。 結局、信長の救援を受けることはできず、守将佐久間盛重は討死、砦は陥落してしまいました。 |
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| 溝口城 承久の乱で戦功があった溝口氏が美濃から移り住んで来て築城しました。 その後、織田氏に仕えこの一帯を支配したようです。 現在は成願寺の境内に写真の碑があります。 |
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| 妙行寺 中村公園の近くにあります。 加藤清正が誕生したと伝えられている地で、境内には清正の像がありました。 家康により名古屋築城を命じられた際、廃材を用いて建設したのがこの妙行寺だということです。 |
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| 村木砦 今川義元が織田信秀の死をきっかけに尾張への進出をはかり、鳴海城、大高城、沓掛城を攻略。さらに緒川城を攻略するために築かせた砦がこの村木砦です。 その後緒川城の水野氏の援軍要請を受けた織田信長により落城しています。 現在は尾張森岡駅の北の八剣神社に写真の碑と説明板があります。 |
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| 矢合城 「やわせ」と読みます。 早尾東城主だった橋本大膳が移り住んできたお城で、片原一色城の支城としての役割もありました。 現在は国分寺の門前に写真の碑があるのみです。 |
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| 岩作城 「やざこ」と読みます。 城主の今井四郎三郎は長久手の戦いにて徳川方に加わり、岩崎城にて秀吉方の池田勢の攻撃を受け討死しました。 城もこの長久手の戦いの際に陥落したと言われています。 現在は長久手町役場になっており、古戦場公園の東の道を北上していくと写真の碑がわかりやすく建っています。 |
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| 八橋古城(葦香城) 城下、登城といった字名があり、空堀や土塁があったので城が存在したのではと言われており、三河鉄道建設の際人骨や五輪の塔、土塁、堀などが発掘されたので古城の存在が確認されました。 平安時代の村上兵部兼房の居城と言われていますが、発掘調査によると15〜16世紀の城跡だそうです。 現在は住宅街の中の公園に写真の碑と説明板が建っています。 |
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| 吉川城 吉川入道が築城し、花井氏が居城しましたが、その花井氏が寺本城に移ったため廃城になったと言われています。 知多半島道路大府東海ICの東m国道155号沿いに写真の碑が建っています。 |
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| 吉田城 もともとは今川家臣の牧野古白によって築城されましたが、東三河の要衝であるため、今川、松平(徳川)の間で争奪戦が繰り返されました。 関ヶ原の合戦後池田輝政が入り城域の拡張が進められましたが、姫路へ転封となり、整備未完のまま明治に至ってしまいます。 写真は復興された鉄櫓ですが、日本宝くじ協会が宝くじの普及宣伝事業として寄贈したものです。 現在は豊橋市役所の東側に豊橋公園として整備されています。 |
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| 鷲津砦 桶狭間の戦いの時に、今川方の朝比奈泰朝の攻撃を受けた織田方の砦です。 やはり信長の救援を受けることはできず、陥落してしまいました。 現在は公園です。 |